引きこもり主婦の黒歴史〜人付き合いが苦痛だった

ネロリ

こんにちは、Uターン主婦のネロリです。
本日もご訪問いただきまして、ありがとうございます。

今日も寒い1日でしたね。
わたしは、朝から持病の頭痛ですっきりしない1日でしたが、
ブログを書こうという気持ちのおかげで、なんとか1日を締めくくれそうです。

子どもの頃は社交的

わたしは、自分では引きこもり主婦と思っていますが、
子どもの頃は、むしろ社交的だったかもしれません。

なぜかと言えば、父親が転勤族のため、物心ついた頃から引越しの連続だったからです。
記憶にあるだけで9回。小学校時代も、3回転校しました。
岩手県、東京、千葉県、北海道の4つの小学校に通いました。
6年間で4校、平均1.5年で転校です。

転校するたびに、新たな人間関係を築かなければならず、
ある程度は社交的でなくては、友だちもできませんでした。

すぐに馴染めることもあれば、なかなか馴染めない時もあり、
あまり馴染めなかった時は、早く転校したいと思ったりしました。

家は東京なので、基本、地方と東京を行き来することが多かったのですが、
東京に住んでいる期間が短かったので、中学2年の時に北海道から東京に戻って来た時は、
まるで初めて住むような感覚でした。

それでも、小学校時代に一緒だった子がわたしを覚えていてくれて、
なんとか馴染むことができましたが、
「ここは、本当にわたしのいるべきところなのだろうか?」
と、いつも心の片隅で思っていました。

ちょうど思春期真っ只中、ということもあったのかもしれませんね。

高校が嫌い

その後、都立高校に進学しましたが、第一志望の高校だったのにも関わらず、
わたしは、まったく学校に馴染めませんでした。

折しも、また父親が転勤になり、今度は海外に3年間赴任することになりました。
妹たちは、現地の日本人学校に通うことになりましたが、
赴任先には、日本人が通えるような高校はなく、わたしは日本に残りました。

はじめは実家で祖母と一緒に暮らしていたのですが、
祖母が、今でいう認知症になり、松本にいる叔母夫婦が引き取ることになりました。
高校1年の娘を一人で家に置いておくわけにはいかないと、
母が一時帰国して住む場所を探し、わたしは高校生にして下宿をすることになりました。

わたしに黒歴史があるとしたら、高校の3年間です。
下宿生活は、それほど苦痛ではありませんでした。
呆けてしまった祖母と二人で暮らしているより、ずっと心が休まりました。

家事も、自分の身の回りのことだけすればいいので、
そんなに苦痛に感じていませんでした。

ただ、学校が楽しくないというのが、一番辛かったです。
基本、気が小さいので、表向きはみんなと仲良くしようとしましたが、
いつも無理をしていました。

別に、いじめを受けていたわけではなかったのですが、
クラスの中で、いてもいなくてもいいような存在でした。

自分の居場所がないというのは、本当にいたたまれないものです。
下宿をしているのをいいことに、わたしはちょくちょく学校を休みました。
ただ、ちゃんと欠席日数は計算していて、留年しないように気をつけてはいました。

当時の都立高校は、制服もなく、とても自由な校風で、
わたしが学校を休んでも、担任から咎められることはありませんでした。

制服がないので、おしゃれな子も大勢いましたが、
仕送り生活を送っているわたしは、親に服を買ってもらうこともできず、
制服だったらどれほど楽だろうと、私服通学を恨めしく思いました。

それほど悪い学校だったとは、思いません。
実は、ジミ夫も同じ高校の出身なのです。

学年は8年違うので、同時期に学校に通っていたことはありませんが、
ジミ夫は、高校時代がとても楽しかったそうです。
進学率もそこそこで、まあまあの学校でした。

ただ、わたしが学校と合わなかったんでしょうね。
一人だけ、そんなわたしと仲良くしてくれた子がいて、
彼女のおかげで、わたしは無事卒業できたようなものです。

卒業して何十年も経ってから、彼女に「実はあの学校が嫌いだったの」と言ったら
彼女は「わたしもよ」と言いました(笑)。
そんな彼女とは、今でもお付き合いが続いています。

大学デビュー

その後、両親と妹たちも帰国し、わたしは短大に進学しましたが、
高校時代の轍は踏むまいと、友人作りに励みました。
今で言う、「大学デビュー」ですね(笑)。

時代を先取りしていた、というか、言葉がなかっただけで、
特に東京の大学では、そういう子はけっこういたんじゃないかと思います。
わたしも暗黒の高校時代は「黒歴史」として封印し、高校時代も充実していたフリをしていました。

日本に帰ってきた父は、すぐまた転勤になりましたが、
わたしはついて行かずに、東京に残りました。

学生時代は、思いのほか授業が楽しかったです。
わたしは国文科だったので、苦手な理数系の授業から解放され、
しかも、興味のある美術系の授業などもあったので、けっこう真面目に勉強しました。

陽キャラを作りすぎて、ちょっと無理している感はあったものの、
仲の良い友人もできて、それなりに楽しい学生生活を送りました。

まさかのイジメ

ところが、卒業後、就職先の会社でまさかのいじめ。
同期の四年制大学卒の子に、ものすごく虐められました。

彼女は、今で言うリケジョで、超有名大学卒。
なんでウチの会社に入って来たの?という感じでしたが、
当時は、まだ四年制大学卒の女子学生は、就職が厳しかったのです。

なぜ彼女がわたしに意地悪をしたのか、今でもよく分かりませんが、
おバカな短大卒の子(わたし)と同じ待遇で、
仕事の内容も変わらないのが、我慢ならなかったのかな?と思います。

わたしは、毎日、今日は何を言われるんだろう?とびくびくしていました。
一番よく覚えているのは、「ネロリちゃん、くさ〜い」です。
「え? どういうこと?」と聞くと「だって田舎の匂いがするんだもん」と言われました。

わたしが野暮ったいということを揶揄したのかもしれませんが、
何度も同じことを言われるので、わたしは自分が本当に臭いのか心配したり、
それとも、もっとオシャレした方がいいのか、悩みました。

今思えば、何か言い返せば良かったのでしょうけれど、
気が小さいわたしは、曖昧に笑ってごまかすことしかできませんでした。
彼女が1年で退職した時は、正直、ほっとしました。

彼女も会社がイヤだったのでしょうね。
かと言って、わたしに意地悪をしたことはやっぱり許せませんけど。

そして今は

こうして振り返ってみると、今は平和だなあと思います。

若い頃は、ほんのちょっとしたことで傷ついたり、
自分を大きく見せようと見栄を張ったり、
言いたいことも言えずに悩んだり、
自分の居場所が見つからずに、いたたまれない思いをしたり、
無理して笑ってばかりいたような気がします。

素直で明るくなくちゃだめ。
いつも笑顔で、元気な子でいなくちゃだめ。

そんな呪縛は、
人に好かれる子でいたい。
仲間外れになりたくない。
そういう思いから来ているんですよね。

わたしの夫であるジミ夫は、そういうところからすごく遠いところにいる人で、
人からどう思われようと平気、というタイプです。

サラリーマン時代も、ちょっと扱い難い社員だったようです。
古い体質の会社なので、派閥などもあり、
出世するには主流派にいなければならないのですが、
主流派どころか、反主流派でもない、我関せずの人(だったらしい)。

でも、退職したあとも、なぜか同じ部署の先輩たちに声をかけられ
旅行したり、飲みに行ったり、楽しく過ごしています。
ジミ夫はあまり社交的ではなかったので、ちょっと不思議。

わたしは、ジミ夫と同じ会社の女性と趣味友だちなのですが、
退職後、誰からも声をかけられない人もいるそうなので、
ジミ夫は、変わり者ながらも、地味な性格がプラスに働いているのかな。

わたしみたいに、人目を気にしたり、誰とでも仲良くしなくちゃと思わず
ジミ夫のようにマイペースで、自然体な方がいいのかもしれませんね。

人目を気にするわたしと、まったく気にしないジミ夫ですが、
二人を比べたら、わたしの方が悪口を言われている確率高しです(笑)。
なんなんでしょうね、このパラドックスは。

それでも、結婚してジミ夫の影響を受けたのか、
以前より、人づきあいで悩むことは、少なくなりました。

持って生まれた性格は、なかなか直せませんが、
残りの人生は、もっと自分に正直に生きて行きたいと思うこの頃です。

おわりに

neroli_113.jpg
わたしが育てた薔薇。シャリファ・アスマという品種です。
花も美しいですが、爽やかな香りが素晴らしく、いつかまた育てたいと思う薔薇です。

今日もまた、長い自分語りにお付き合いいただき、ありがとうございます。
自分の黒歴史を、ネットで晒したのは初めてで、お恥ずかしいです。
わたしのこの話を知っているのは、友人ふたりくらいでしょうか。
親にも、話したことがありません。

人に黒歴史あり、ですね(笑)。
(いや、そんなんお前だけやろ!)←なぜか関西弁。

本日もお読みいただき、ありがとうございました。
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Comments 2

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そら

ネロリさんのブログ とても読みやすいですね。こちらに よく伝わる文章なんです。小学校 4つも経験されたのですネ‼️ 方言に苦労した事ありましたか? うちは 娘が大阪で幼稚園を卒園後 熊本の小学校に入学した時 娘は 「熊本弁の授業が分からない」と言ってた事ありました。💦 でも 子供は すぐに 方言にも慣れ 下の子が幼稚園に行き始めと 家でも 子供達は 熊本弁で話していました。😊

娘が小6 息子が小2の時から ずっと都内に住んでいますが 中高生の多感な時期に 転校がなかったのは 幸運でした。ネロリさんの高校生での下宿生活を知り ちょっとびっくりもしました。しっかりしていた高校生でしたネ。

その後の色んな人間関係も 頷きながら 読みました。「くさい」と言う言葉 今の職場だと問題発言にもなります。‼️ よく耐えましたね。😊 ご主人様と高校の同窓 やはり ご縁があったのですネ。💖💕

長くなりそうなので この辺で。🍀

ネロリ
ネロリ
そらさま

そらさま、こんばんは。
いつもコメントをありがとうございます。

ブログを読みやすいと言っていただき、感謝です〜。
いつも長文になってしまうので、反省です。

お嬢様の方言のお話、興味深くうかがいました。
わたしも、たぶん方言を話していたと思うのですが、あまり記憶がないんですよね。
千葉県は、あまり東京と変わらなかった気がします。

北海道は、けっこう方言がありましたが、
たぶん、関西や九州ほどの違いはなかったかも。
茨城の地元の人の方が、方言は強烈な気がします(笑)。

高校時代の下宿生活は、今から思うと大変だったと思うのですが、
当時は、日々の生活に追われていて、大変と思う余裕もなかったかも。
母はずっと「かわいそうな思いをさせた」と後悔していたようです。

「くさい」は、本当に強烈でしたねー(汗)。
よっぽどわたしのことが、気に食わなかったんだと思います。
プライドが高い人だったんでしょうね。
今はどこでどうしているのかな。

人間関係は、どこにいても色々と大変ですね(笑)。