こんばんは、Uターン主婦のネロリです。
本日もご訪問いただき、ありがとうございます。
父の思い出
今日は、わたしの父の祥月命日なので、ジミ夫とお墓参りに行ってきました。
穏やかなお天気で、気持ちよくお参りできました。
病気のため76歳で亡くなった父。
あれから15年が経ちました。
昭和5年生まれなので、今、生きていたら今年92歳です。
うーーん、もし父まで認知症だったら、かなり大変だったかも。
父は、認知症の気はなく、しっかりしたまま亡くなったのですが、
それはそれで、病気との闘いもあり、辛かったかもしれません。
亡くなる数日前は、親しい友人に手紙を出したいといい、
わたしが代筆しました。
父からの手紙を読んで、かなり悪いと知った父の友人や元部下の方が、
病院に飛んできてくださり、父もお別れを言うことができました。
遺影も自分で決め、葬儀や祭壇の形、出棺時の音楽まで自分で選びました。
「これだけしっかりしているんだから、まだまだ大丈夫」
と冗談ぽく言っていたのですが、その数日後にあっけなく亡くなりました。
昨日までは、元気だったのに。
お粥を頑張って食べていたのに。
「天気が崩れそうだから、早く帰った方がいいよ」と
わたしの帰宅の心配をしていたくらいなのに。
病院に向かう電車の中で、信じられない気持ちでした。
わたしは、子どもの頃から父親っ子だったので、本当に悲しかったです。
大好きな父が一番心配していたのが、残していく母のことでした。
明るくて社交的だけど、生活力というか事務処理能力が今ひとつ不安な母。
面倒なことは、すべて父に任せっきりで、父に頼り切って生きていました。
わたしは、父の代わりに自分が母を守らなくては、と思いました。
葬儀社もわたしが決め、喪主挨拶もわたしが書き、
役所関係の手続きもわたしがやりました。
娘であるわたしと妹二人は、相続放棄し、母にすべてを残すようにしました。
父亡き後
父亡き後の15年は、わたしが母の保護者のようでした。
娘なのに、一人息子のような心持ちでした。
母は、父に頼ったようにわたしに頼り、考えることを放棄したようでした。
今振り返ると、それがよくなかったのかなとも思ったりします。
それとも、その頃から、母の認知症は始まっていたのかもしれません。
過ぎ去った日々を悔いても仕方のないことですが、
こういう折りには、つい考えてしまいます。
今日、母がお世話になっている老人ホームから、今月の献立表と共に、
母の写真と、母からの手紙が送られてきました。
先月以上に、読みづらく内容も意味不明の手紙に、母の衰えを感じましたが
写真の母は、笑顔いっぱいでした。
今月より面会が再開されたので、予約しようかと、母の様子を電話で聞いたところ、
もし、今、わたしに会ったら、ようやく慣れたところなのに、
また里心がついてしまうかもしれないということで
もう少し間をおいた方が良いと思いますとのことでした。
やっぱりそうなのか……と少しショック。
そうだよね。わたしに会ったら、家を思い出すよね。帰りたくなるよね。
ごめんね、お母さん。
末妹からのお花に、心が和らぐ
ちょっと落ち込んでいたら、お花が届きました。
福岡にいる10歳年下の妹からでした。
父が好きだった、ビタミンカラーの花。
毎年、父の祥月命日にはお花を送ってくれます。
ありがとう、妹よ。
お礼のラインをすると、すぐに電話があり、
今月末に母に面会したいとので、上京してもいいかとのこと。
もちろん、こちらは大歓迎。
母も可愛がっていた末っ子の面会なら、たぶん大丈夫でしょう。
もしかしたら、忘れているかもだけど(汗)。
末妹も、もう3年以上母に会っていないはず。
「今、会わなかったら、二度と会えないかもしれないから」
と言っていました。
そうですよね。
母も今年で87歳。いつ何が起こるかわかりません。
わたしは、ずっと母と一緒だったから、あまり感じていませんでしたが、
親元離れて長い末妹は、色々考えることもあるのでしょう。
もう一人の妹
久しぶりに姉妹全員揃うことができるといいのですが、
すぐ下の妹は、横浜にいるのに今日も音沙汰なし。
ここ数年ずっとそうなので、わたしも連絡をしないようになりました。
最初、妹の様子が変だと気づいた時に、義弟にも電話して、
メンタルクリニックに行かせたのはわたしです。
強迫性障害と言われ、投薬治療を始めたのですが、
自分から通院も服薬も止めてしまいました。
わたしはパニック障害でしたが、同じメンタル疾患経験者として、
勝手に服薬をやめるとどうなるかよく知っていたので、
主治医と合わないなら、病院を変えてもいいから、
薬を止めるのはよくないと言ったのですが、言うことを聞きません。
あまりに頑固なので、わたしも匙を投げました。
どうやら、義弟が、妹がメンタルクリニックへ行くのを反対しているようでした。
「病院なんかに行ったら、薬漬けにされてボロボロになる」
というのが、義弟の意見のようでした。
わたしも、母の介護もあり、妹までも抱え込むのは無理でしたし
ジミ夫からも「夫婦で決めたことだし、あまり口を出さない方がいい」
と言われ、妹のことは諦めました。
母の介護に関しても、妹は母のことが好きではないため
ほぼノータッチで、助けにはなってもらえませんでした。
母に電話をしてくることもなく、病気が悪いのかもしれないと、
だんだんこちらからも連絡をしなくなりました。
電車で1時間ほどの距離に住んでいるのに、
末妹が前回上京した時に三人で会って以来、会っていません。
それでも、20年ほど前は一緒に宝塚を観劇したり、
けっこう仲良くしていた時期もあったのです。
わたしは、中学生の頃から変わらず宝塚ファンですが、
妹は、好きなタカラジェンヌの退団とともに、
宝塚への興味が一気になくなったようです。
チケットが取れて誘っても、断ってくるようになりました。
血の繋がった姉妹でも、合う合わないはあるのでしょうか。
末妹とわたしは、けっこう気が合うのですが、
すぐ下の妹は、昔からちょっと浮いた存在です。
妹は美人で、いわゆるエリート(志向の強い)男性と社内結婚しました。
都心の一流ホテルで豪華な結婚式を挙げた時は、かなりお金が掛かったようです。
のちに母が嘆いていました。
マンションもかなり無理して、横浜の高い物件を買いました。
堅実派のジミ夫なら、絶対にありえない金額でした。
そんな妹ですが、あまり幸せそうには見えません。
見た目はお似合いな夫婦なのでしょうが、
妹は、いつも不満げな顔をしています。
せめて、病院へ行って、少しでも体調がよくなってほしいと思います。
なんだかんだ言っても、血の繋がった妹なのですから、
不幸にはなって欲しくないです。
兄弟姉妹は難しい
父の話から妹の話まで、話が散らかってしまい、すみません。
60代にもなってくると、実の兄弟姉妹であっても色々あるという話を
あちこちで聞きます。
わたしの友人のご主人は、親の介護が原因でお兄さんと絶縁状態だそうです。
小さい頃は仲良く遊んでいても、自分の家庭を築けば大切なものも変わるし
別の道を長く歩んでくれば、価値観も違ってくるのでしょうね。
父の命日に、色々考えさせられた一日でした。
お墓参りの後は、お寺の近くのラーメン屋さんでお昼を食べ、
お隣の和菓子屋さんでお供えを買って帰るのが、最近のお約束。
昔ながらの家族経営の和菓子屋さんで、とっても美味しいのです。
仏壇に供えてから、お下がりをあっという間に食べてしまって、
写真を取り忘れました(笑)。
母は、今日が父の祥月命日だということ、覚えているかしら?
たぶん、覚えていないだろうな。
おわりに
一番の手軽な気晴らしは、散歩と読書。
本を読めるようになったのは、元気になった証拠かな。
今日は、いつも以上に長く重い記事になってしまいました。
すみません。
読んでいただき、ありがとうございます。
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明日は、少し明るい記事が書けますように。
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