Uターン主婦のネロリです。
本日もご訪問いただき、ありがとうございます。
今まで、何回か書いてきましたが、わたしは高校の時に下宿生活をしていました。
高校1年の夏、父が海外赴任することになり、学校の関係でわたしだけが日本に残ったのです。
なぜ下宿することになったのかは、以下の記事にありますので、よろしかったらどうぞ。
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今回は、その下宿での生活について、書いてみたいと思います。
高校生が下宿をする
母と下宿を探していて一番大変だったこと、
それは都内で、高校生を下宿させてくれるところがあまりなかったことです。
母の友人のツテで、帰国子女の支援をしてくれる協会のようなところで、
下宿を紹介してもらうことになり、2件の下宿を見学に行きました。
ひとつは、仙川にある普通の住宅で、空いている部屋を貸すというお宅。
トイレもお風呂も食事も、全て家族と一緒。
いわゆるホームステイみたいな感じですね。
決まり事がたくさんあり、奥様はとても厳しそうな方だったので、
わたしは、自分にはとても務まりそうにないと思いました。
もう一件は、杉並区浜田山にある昔ながらの下宿屋さん。
商売で下宿をやっているお宅で、下宿人は別棟に部屋があり、
食事の時だけ、食堂に行って食事をするという形。
建物は男女で分かれていて、女子の部屋は2部屋あり、
明治大学の女子学生の方が入っていました。
わたしは、祖母との生活に疲れていたので、こちらの下宿屋さんを選びました。
下宿代は朝夕の食事付きで3万円で、親が直接振り込む契約でした。
妹二人を残していたので、母は下宿が決まると早々に父の赴任先に戻って行きました。
いったい一人でどうやって引っ越したのか、自分でもよく覚えていません。
下宿の部屋
部屋は四畳半、下宿なので水道もなく、トイレと洗面所は共用です。
前にも書きましたが、洗濯機もないので、洗濯は、たらいと洗濯板を使っての手洗いでした。
大学生のお姉さんは、コインランドリーを使っていたのかもしれませんが、
わたしは高くて使えませんでした。
商売で下宿をしているお宅なので、下宿人の生活態度に口出しすることはなく、
そういう意味では気楽でしたが、食事が粗末なのは辛かったです。
朝夕の食事は、食堂のテーブルの上に用意してあり、いつも冷え切っていました。
ご飯だけは、ジャーに入っていて、お代わり自由でしたが、
おかずが少ないので、お代わりすることはありませんでした。
高校生はわたしだけで、生活時間が違うせいなのか、
食堂で大学生の人たちと一緒になったことは、一度もなかったです。
いつも一人で食事をしていました。
食べ終わった食器は、流しに下げておけば、おばさんが洗ってくれるのですが、
おばさんの生活スペースと下宿人のスペースは、分かれていたので、
下宿のおばさんと顔を合わせることも、ほとんどありませんでした。
下宿というより、アパートの感覚に近かったかもしれません。
仕送り2万円の生活
親からの仕送りは、2万円でした。
なぜ2万円に決まったのかは、覚えていません。
昭和51年のことで、LPレコードが2500円くらいの時代でした。
銭湯の料金は、最初は120円だったと思いますが、毎年値上げされて大変でした。
わたしは、お風呂だけは毎日入りたかったので、仕送りのお金が入ると、
まずは、銭湯のお金だけを別に分けました。
そのほかに、お菓子やインスタントコーヒー、カップラーメンなどの食料品を
1ヶ月分スーパーでまとめ買いしました。
部屋に冷蔵庫がなかったので、生物は買えませんでした。
それだけでだいたい1万円かかり、残りの1万円を、学校での昼食代やお小遣いにしました。
都立高校でしたが、学食があって、250円くらいで定食が食べられたので、とても助かりました。
下宿の食事より、高校の学食の方が美味しかったです(汗)。
仕送りのお金が振り込まれる日の一番の楽しみは、
駅前にあった不二家でケーキを買うことでした。
ケーキを1個だけ買って帰り、下宿の部屋で食べました。
本当に美味しかったです。
お金はなかったけれど、食事に困ることはなかったので、何とか生活できました。
でも、仕送りを増やしてほしいと親に言うことはありませんでした。
両親は海外にいますし、昭和ですから、もちろんネットもなく、電話もありません。
親との連絡方法は、手紙だけでした。
当時は、親戚もみんな転勤などで遠方にいて、一番近い親戚が埼玉県にいましたが、
交通費がかかるので、なかなか行くこともできませんでした。
何より、わたし自身が「人に頼りたくない」という気持ちが強かったのだと思います。
先に書きましたが、家事で一番大変なのは洗濯でした。
学校から帰ると、急いで銭湯に行き、開くのを待ちます。
一番風呂に来ているのは、子ども連れの若いお母さんや、お年寄りです。
帰宅すると、洗濯をして干しました。
高校が私服でしたので、来ていく服を考えるのがとても面倒でした。
制服の学校が本気で羨ましかったです。
おしゃれではありませんでしたが、洗濯はまめにしていました。
ただ、洗面所(というか、大きなシンク)も共同だったので、なかなか気を使いました。
お湯が出ないのも、冬は辛かったです。
休みの日のお昼は、電気ポットでお湯を沸かし、
カップスープや、カップ麺などを食べました。
一番の楽しみは、マンガを読むことと宝塚歌劇を観ることでした。
マンガはもともと大好きでしたが、
宝塚は中3の時に、原作ファンだった「ベルサイユのばら」の初演を見てすっかり魅了され、
それ以来、劇場に足を運ぶようになりました。
もちろんお金がありませんから、いつも300円の立ち見席。
または、500円の3階席でした。
学校が楽しくなくて、しかも親元離れていたわたしが
グレもせずにいられたのは、宝塚があったからだと思います。
一度だけ、どうしてもお金が欲しくて、アルバイトをしようと思い、
下北沢のマクドナルドに電話したことがありますが、
高校生は採らないと言われてしまいました。
後は、一人だけ仲良くしてくれた友だちがいて、
午前中で授業が終わる土曜日に、わたしの下宿に来たり、
彼女の家に遊びに行ったりしていました。
遠足の時は、親のいないわたしのために、
彼女のお母さんが、わたしの分もお弁当を作ってくれました。
涙が出るほど嬉しかったです。
今なら、コンビニや激安スーパー、100均にドラッグストアなど、
一人暮らしの頼れる味方がありますが、当時はそんなものは何もなくて、
よく暮らしていたものだなあと思います。
夏休みや冬休みには、親の赴任先に行ったのですが、
自分でパッキングをして、羽田空港からたった一人で国際線に乗って行ったのですから、
我ながらよくやったと思います。
行きはうれしかったですが、帰国するときは、毎回飛行機の中で寂しくて涙ぐんでいました。
それでも、日本に戻れば、日々の生活が大変で、泣いている暇もありませんでした。
こんな体験は、わたしだけかと思っていたら、大人になってから知り合った人で、
高校が家から遠くて通えなかったので、下宿していたという人がいました。
東京では、まずないことですが、地方によってはそういう人もいるのだと知り、
少し嬉しかったです。
四畳半の下宿の部屋。ほぼ宝塚オタク部屋となっています(笑)。
安奈淳さんと麻実れいさんのファンでした。
実家から、エレクトーンと高校の入学祝いに買ってもらったミニステレオ、
学習机を持ってきていました。
写真は、当時はやっていたポケットカメラで撮りました。
カメラは、中3の時、雑誌のデザインコンテストで賞を取って、賞品にもらったもの。
初めて自分の名前が活字になって、うれしかったです。
下宿生活のおわり
短大に入学した年に、3歳年下の妹(次妹)が日本の高校に入学したため帰国しました。
わたしの下宿生活はそこで終わりをつげ、今度は妹と実家で暮らすことになりました。
その数ヶ月後、父も任期を終え、母と末妹(当時小3)と一緒に帰国しました。
ようやく家族5人揃って生活できると思いましたが、半年後にはまた父の転勤で、
両親と末妹は、岡山県に旅立って行きました。
父が年齢的に転勤がなくなり、家族が東京に落ち着いたのは、わたしが就職した後でした。
そんなわけで、わたしの中では、親と一緒に暮らしたのは中学までという感覚です。
振り返ると、本当に綱渡りの日々で、よく無事に大人になれたものだと思います。
実家の家族の中でも、あの3年間の話は集まる度にでて、
「ネロリは本当にかわいそうだった」と母が言っていたものです。
わたし自身は、自分をかわいそうだと思ったことはなく、
ただただ「大変だったなあ」と懐かしく振り返るだけです。
もし、高校時代を、普通に親元で過ごしていたら、どうだったでしょうか。
少なくとも、もう少し勉強はしていたかもしれません(笑)。
そうしたら、志望大学に入れたかなあ。
いや、やっぱり親の目を盗んでマンガばかり読んでいたかも(笑)。
あれから47年経ち、今では忘れかけていることも多いですが、
自分の人生の中でも、色々な意味で強烈な体験をした3年間でした。
茨城の家の薔薇です。ワイルドイブという品種。
わたしの薔薇好きの一番の根っこは「ベルサイユのばら」です(ミーハー、笑)。
おわりに
下宿する前の数ヶ月、わたしは父方の祖母と実家で暮らしていたのですが、
今、振り返れば祖母は認知症で、わたしはヤングケアラーでした。
しかも、そのことに誰も気づいていなかったという・・・。
それも、なかなか大変なことでした。
そのお話も、いずれ書いてみたいと思います。
わたしの場合、下宿生活だけでなく、父が倒れて死にかけたりとか、
結婚前の生活がいろいろありすぎて、
ジミ夫と結婚してからの方が、ずっと平和でした(笑)。
わたしがジミ夫と結婚してから、父の病状も落ち着いて、
母が「ジミ夫さんは、我が家の福の神ね」とよく言っていました。
それとも、わたしが実家からいなくなったからなのかもしれません(汗)。
本日も最後までお読みいただき、ありがとうございます。
人生いろいろですね。
わたしは、高校時代、こんな貧しい高校生は自分だけだと思っていましたが、
大人になって、そうではなかったとわかりました。
親は親なりに精一杯だったのでしょうね。
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親は海外赴任・貧乏高校生が下宿で困ったこと、失敗したこと
昨日、高校時代の下宿生活のことを書きましたが、書きながら、色々と思い出したことがありました。寂しい食卓。下宿の食事は、食べ盛りの高校生にとっては、本当に寂しい内容でした。
...neroliweblog.blog.fc2.com寂しい...
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